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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 州 : [す, しゅう] (n) sandbank
フォールリバー()は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ブリストル郡南西部海岸に位置する都市である。2010年の国勢調査では人口88,857 人であり、州内では人口で第10位の都市である。 マウントホープ湾の東海岸、トーントン川の河口に位置し、19世紀には国内繊維産業の中心都市として著名になった。その後の長い間に繊維産業は消えて行ったが、市の文化と景色に与えたその影響は今日も残っている。公式モットーは「我々は試す」であり、1843年の大火の後にその歴史がある。1958年にアービング・フラドキン博士がここで「ダラーズ・フォー・スカラーズ」という奨学金制度を設立したので、「奨学金都市」というニックネームもある。 フォールリバー市は、リジー・ボーデン、ポルトガル文化、数多い19世紀の繊維工場、戦艦入江で知られている。戦艦入江は第二次世界大戦の軍艦を集めたことでは世界最大であり、戦艦マサチューセッツが残されている。州間高速道路の真上に市役所があることでは国内唯一の都市である。 露出した滝が町の中心街の一部に落ち、半マイル足らずで中心街の外れに囲われた港湾に流れ込むという町は、アメリカ合衆国東海岸でフォールリバーだけである。市の東部にある保護森林の大部分に沿って2つの大きな湖(元は1つ)があるという事実でも特徴があり、そこは少し標高が高く、その湖からクィッカシャン川が流れ出て、市中心部を2.5マイル (4 km) 流れ、市の西部にある水深の深いマウントホープ湾とトーントン川入江に、推計1日2,600万ガロン (98,000 m3) の水を注いでいる。クィッカシャン川はかつて市の中心街を流れ、工場のために大きな水力を提供し、最後の半マイルで8段の急な滝が高低差128フィート (39 m) を造り、マウントホープ湾の頭にあるトーントン川に流れ込んでいた。このように特徴ある地形と共にフォールリバー花崗岩石切場があるなど、東海岸では数少ない町の1つである。この巨大な水力と花崗岩が今日の市の形成に貢献してきた。 == 歴史 == === 開拓初期 === 1620年にプリマス植民地が設立されたとき、この地域にはポカノケット・ワンパノアグ族インディアンが住み、現在のロードアイランド州ブリストルにあるマウントホープを中心にしていた。フォールリバーの名前の元になった「流れ落ちる」(滝の)川はクィッカシャン川であり、市内を流れ、急に落ちて湾に入っている。クィッカシャンはワンパノアグ族の言葉で「落ちる川」あるいは「飛び出し落ちる水」を意味すると考えられている。1960年代、州間高速道路195号線が、市内を通るクィッカシャン川の全長に沿って建設された。プリマス・アベニューの西側は一連の箱形廃水溝によって地下を通り、一方東側の「ミルポンド」部は道路の土手のために埋められた。 1653年、プリマス植民地のメンバーがアソネット湾にフリーマン購入地の一部としてフリータウンを設立した。その中には現在のフォールリバー市北部も入っていた。1683年、フリータウンは植民地の中の町として法人化された。現在のフォールリバー市南部は、1694年に、数年前にプリマス植民地を吸収したマサチューセッツ湾植民地の一部であるティバートンとして法人化された。1746年、ロードアイランド植民地との境界紛争が決着し、ティバートンはリトルコンプトンや現在のニューポート郡と共にロードアイランドに併合された。その境界線は現在のコロンビア通り辺りに置かれた。 1703フィリップ王戦争の英雄ベンジャミン・チャーチが、クィッカシャン川沿いに製材所と製粉所、縮充機を設立した。1714年、チャーチはその土地と水利権をティバートンのリチャード・ボーデンとその兄弟ジョセフに売却した。この権利移譲は100年後に大きな価値があることが分かった。ボーデン家はフォールリバーの繊維産業開発の指導者となった。 18世紀、この地域はほとんど小さな農園であり、人口も比較的少なかった。1778年、アメリカ独立戦争の一部としてフリータウンの戦いがおこり、町の人々はイギリス軍に対して強力な防御線を張った。 1803年、フォールリバーがフリータウンから分離し、町として公式に法人化された。その1年後、町名を「トロイ」に変えた。トロイは30年間続き、1834年2月12日にフォールリバーに戻された。この期間、町政は3人の選挙で選ばれた理事会が担当し、1854年に市になるまで続いた。 1843年7月、フォールリバーの歴史で最初の大火が、図書館など町の中心の多くを破壊した。この図書館には、1832年に現在のハートウェル通りと5番通りの角近くにあった砂州で発見された武装骸骨を納めていた。 この頃現在の市南部(コロンビア通りより南)はロードアイランド州ティバートンの中に入ったままだった。1856年、ティバートンの町の住民投票で、工業化された北部を分離し、ロードアイランド州フォールリバーとした。議論が数10年間続いた後の1861年、アメリカ合衆国最高裁判所が州境を現在のステート・アベニューに移動させ、それによってフォールリバー市は完全にマサチューセッツ州内に入った。この判決では、マサチューセッツ州ポータケットがロードアイランド州に移された〔Fall River, Rhode Island 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フォールリバー (マサチューセッツ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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